1985年の読売ジャイアンツ(1985ねんのよみうりジャイアンツ)では、1985年の読売ジャイアンツの動向をまとめる。
この年の読売ジャイアンツは、王貞治監督の2年目のシーズンである。
概要
この年の巨人は開幕2戦目対大洋戦(後楽園球場)で山倉和博が故障して離脱し、5月1日対阪神戦(後楽園)で復帰するまで正捕手不在の序盤となった。開幕3戦目、4月16日の対阪神戦(甲子園球場)で4回裏に遊撃手の河埜和正が佐野仙好の何でもないショートフライを落球すると、この試合の先発だった加藤初が阪神打線につかまり逆転負け、さらに翌日も槙原寛己がランディ・バース・掛布雅之・岡田彰布にバックスクリーン3連発を喫し、勢いのついた阪神にスタートダッシュを許した。河埜は落球の影響で大不振に陥り、岡崎郁や石渡茂に遊撃手のポジションを奪われる機会が増えた。それでも打撃陣の好調に支えられて5月に貯金10を重ねて阪神に追いつき、シーズン中盤まで阪神・広島と首位争いを繰り広げるが、槙原がバースの打球を股間に当てて戦線離脱するアクシデント。8月後半には一時首位に立ったが、9月に入ると江川卓・西本聖の先発の両柱が打ち込まれる日が多くなり急失速、9月8日の大洋戦(後楽園)では前年に金銭トレードで放出した平田薫に満塁本塁打を打たれ自力優勝が消滅。8月終了時に13あった貯金を1まで減らしたものの、大洋の追撃を紙一重でかわしてシーズンを3位で終えた。このシーズンは先発と救援を兼任したプロ3年目の斎藤雅樹の台頭こそあったものの、江川・西本の2本柱が調子悪くまた投手陣のアクシデントが続いた年であった。オフには定岡正二が個人の事情により近鉄へのトレードを拒否して任意引退した(「近鉄の定岡で終わるより、巨人軍の定岡で終わりたかった」と本人談)。定岡引退を受け、巨人球団は改めて淡口憲治外野手と山岡勝投手とのトレードで近鉄から有田修三捕手を獲得した。打撃陣はこの年も好調でチーム打率.279とリーグ2位、得点も616点でリーグ2位と阪神、広島とは大差がなかったが盗塁数がリーグ4位だった。この年は4位大洋に10勝13敗3分、5位中日に12勝11敗3分と苦戦を強いられた。
チーム成績
レギュラーシーズン
個人成績
主な投手成績
- 色付きは規定投球回(130イニング)以上の選手
- 太字はリーグ最高
打撃成績
- 色付きは規定打席(403打席)以上の選手
- 太字はリーグ最高
オールスターゲーム1985
- 選出選手及びスタッフ
- 太字はファン投票による選出、他は監督推薦による選出。
できごと
7月
- 7月13日 - 前日の対阪神戦の6回からの3イニングと、この日の阪神の初回から4回にかけて7イニング連続本塁打。
9月
- 9月8日 - 後楽園球場で行われた対大洋22回戦で、代打平田薫に満塁本塁打を喫するなど、2対8で完敗、この時点で自力優勝が消滅。怒った外野スタンドの観客がグラウンドに流れ出て暴れるアクシデント。
10月
- 10月24日 - 後楽園球場で行われた対阪神26回戦(シーズン最終戦)で、王貞治がもつ「シーズン本塁打55本」の日本記録(当時)を狙うランディ・バース選手に対し5打席中4四球(残る1打席は安打)とほぼ勝負を避け、物議を醸す。
11月
- 11月8日 - 近鉄へのトレードを拒否した定岡正二を任意引退選手として公示。
- 11月20日 - ドラフト会議が行われ、KKコンビで注目を集めたPL学園の清原和博は6球団の競合の末西武が交渉権を獲得。一方、早稲田大学進学が有力だった桑田真澄は巨人が1位単独指名で交渉権を獲得。
12月
- 12月17日 - 西武の高橋直樹が巨人にトレード。
選手・スタッフ
表彰選手
- ダイヤモンドグラブ賞:
- 西本聖(投手、7年連続7度目)
- 中畑清(一塁手、4年連続4度目)
ドラフト
出典




